文章を書くのはそれほど得意ではないが、なんとなくだらだらと長文を書いてしまう。
自分のことを他人にわかってほしくて、人と会話したときに必要以上に前のめりに自分語りをしてしまうのは、コミュニケーションが苦手な人にたまに見られる傾向だ。ここでも、そんな自分の孤独な断片を見せてしまっているのかもしれない。
ツイッターなどのSNSでは寡黙な方だ。なんとなく自分を見せるのが恥ずかしい。人からたやすく見透かされてしまいそうな気持ちになり、うまく表現できない。それで撮った写真を黙ってアップし続けていたりする。どちらかというと、人と馴染めない態度はツイッターでの方が素に近いかもしれない。
ツイッターでは、写真界隈を中心にフォローさせていただいている。ありがたいことにそれなりに目立った活動をしてる方からもフォローいただけたりしている。界隈での流行や話題にもそれとなくついていけているが、多くの人の悲喜こもごもも垣間見えたりする。最新の高額機材を安々と購入する人、写真展で賞を取る人、人から認めて欲しくてでもなかなか結果がでない人、海外在住でフォトジェニックな景色の中で暮らしている人、多くの人がおかれた立場でままならない我が身に一喜一憂しながら生活している。機材自慢は人によっては思うところがあるかもしれないが、「いいね」がもらいやすい。自分もたまに手持ちの機材を上げてしまったりする。他人の自慢は羨ましくもあるが、人の幸福を素直に祝福できるくらいには心の余裕を持っておきたい。
最近、私は機材をおおっぴらにアップするのをやめた。以前から自分の人生や生活や家族を脇へおいて、なかば隠れて機材を購入してきた。本人たちに自覚はなくとも、遠回しには家族に苦労をかけている。自分にはずっとその後ろめたさがあった。このブログで紹介してきた購入機材も多くは家族には内緒で購入し、恥ずかしいことだが支払いの整合がうまく取れずに手放してしまうものがほとんどだ。そのあたりを茶化して「ビョーキ」と言って笑ってきたが、あながち間違ってはいない。気づかないうちに深刻なところまで来てしまっているのかもしれない。自分を理解してほしい、自分がここにいることをわかってほしい、自分の美観が間違っていないことをわかってほしい、自分に見えているものが美しいものだとわかってほしい、私がここにいることをわかってほしい。私に欠けているのは本当の意味での「自分」なのかもしれない。それに今回の記事は大いに矛盾している。
目次
もう終わりにしようか。
「ライカM10-P(Leica M10-P)」を購入しました。
以前、ライカM10を手に入れたときに、「P」なんてシャッター音の静音性くらいでしょって感じのことを言ったような気がする。目立った機能的な違いはあまりない。改めてここでM10-Pの機能レビューやメリット・デメリットなどには触れない。
妻に内緒であれだけレンズをとっかえひっかえしておいてなんだけれど、久々に胃がキュっとなるような値段だ。オペレーションを間違うと人生とか、家庭を失いかねない。またライカM10でもよかったんじゃないかとも思った。この選択の違いで10〜15万も値段が違う。ただライカM10を使っているときにシャッター音が気になっていたのは確かだった。場所によっては静音性がどうしても欲しかった。そのために本当に失いたくない機材も手放した。おそらくどれももう手に入らない代物。そしてようやく(憧れの?)ライカM10-Pを手に入れた。
でも、しばらくは表に出せなかった。入手の前後、妻とお金の支払いで揉めた。まったく別の支払いについてだが、そんなタイミングでこの機材の購入を言い出せるはずがなかった。
俺はいったい何をやってるんだろう。
もうこんなことは懲り懲りだと思った。それでも写真は諦められなかった。なんとかしようと考えると、他の機材をすべて放出して、M10-Pだけ残す方法しかなかった。これで当面のお金は工面できた。しばらくは支払いを気にしなくて済む。自分はただの、圧倒的に凡庸な、サラリーマンだった。ネット上でみかける、数十万もするレンズをいくつも買えてしまうお金持ちとは違う。もうやめよう、私は妻とまったり楽しく生きていければそれでいい。周囲の知人、縁者より晩婚だった自分にとって、幸せは単純にそれだけでよかった。それすらも維持できなくなる。
一方でこうも思う。別に浮気してるわけでも、隠れてキャバクラや夜の店で遊んでるわけでもない。カメラで薄着の若い女の子ばかり撮ってるわけでもないし、そこまで悪い趣味だとは思っていない。むしろ街スナップは、街歩きが好きな夫婦にとってはとてもいい趣味だと思っている。
でも、そのコダワリの機材とやらで何を撮っている?
近所の道とか草花とか看板、街角だろう。それって家族とか人生とか天秤にかけるようなものか?無くたってどうってことないだろう。もう嫌だ・・・。妻のかなしい顔をみるのも、隠しごとの後ろめたさも、胃の痛くなる支払いも、もう嫌だ・・・だから終わりにしよう。
もうひとつの幸せ
ライカM10-Pは休日、妻が仕事で不在のときに使った。妻と一緒のときはまったく使わなかった。そのときは未練たらしく手放さずにいたライカM4を使った。OH済みのかなり快調な機材だ。とはいえM10-Pが使えずモヤモヤしていた。その頃も、私は毎日お金の計算をしていた。いつも嫌な気分になったが、アレとアレを売ればなんとか夏のボーナスまでは支払いが持ちこたえるだろう・・・。ライカM4は最後の砦だ。まだ手放したくない。そんな見積もりを行っているとき、家族がもうひとり増えそうなことがわかった。妻の妊娠である。
増えそう、と書いたのは、実はちょうど1年前、非常事態宣言が出され世間が今よりピリついていた頃、私と妻は流産を経験した。そのため慎重になっている。この執筆時点では安定期はまだ先だ。柔らかい空気が桜の花びらを載せて漂いだす頃、妻のお腹は少しだけ膨らみ始めてきており、実感こそなかったが、自分の人生の明るく前向きな側面を想像して将来を夢見ようとしていた。秋にはとうとう親になるのか、生まれてきたら最初にライカで撮ってやろう、名前の候補は個性を出しつつもキラキラネームにならないように・・・。ある日、妻は検診へ出かけたが心拍が確認されることはなかった。心底能天気な私は妻と泣いた。
そんなことがあったから、今回の妊娠は緊張を持ちつつも、心から嬉しかった。今度こそ君を幸せにしたい。だから、私は完全に理解した。もう遊んでる場合じゃないんだな。
(記事公開時点では、喜ばしいことに心拍は無事確認でき、現在も成長中です。そこらに子供らはたくさんいるので、子供ができ、成長するということが、これほどまでに奇跡の連続なのだと、この歳になって私は知った。)
足りない自分
以前からフィルムの値段が目に見えて上がっていたし、去年はフィルムに入れ込み過ぎてフィルム代、薬品代、その他機材、消耗品などかなりの額を使った。「フィルムの自家現像をやってます」。単純に自分の個性を提示できる名刺のようなものが欲しかった。単なる自己顕示欲やファッションでしかなかった。それが何になったのか?何にもならなかった。大切な人を泣かせる、原因になっただけ。おそらくここでも、なんとなく自分を誰かにわかってほしかった、そのための活動だった。結局私に足りなかったのは「自分」だったのだろう。
私はさらに機材を手放した。かなりの値段をかけた機材、使用感も最高、おそらくもう手に入らない。でも、これ以上いらない。そしてライカM10-Pとコシナのフォクトレンダーレンズのみになった。昔はじめて買った単焦点もVoigtlanderだったし、使用感、デザイン、写りも好きなメーカーだった。純正ではないというだけの話。プアマンズ〜とか言ってるやつは相当野暮でしょう。そこらのレンズと比べたら高くさえある。別にドイツ製とか見栄でしかない。いくつも高い名玉を使ってきた身からすると、変な癖や個体差があるより、かえってこっちの方が使用感、写りはよかったりする。今度は機材に撮らされない自分を見つけることにしよう。
しばらくはこのM10-PとVoigtlanderのレンズで撮影することにする。そして今度こそ君が生まれてきたらこれで写真を撮ってやろう。はやりのニューボーンフォトだ。人生のファーストショットがライカなんて、なかなかお洒落でしょう。でも、お金に困ったらすぐに手放して君のために使うことにするよ。別にこだわりも未練もない。今までとは違う幸せをみてみたい。自分はかなり贅沢だと思う。
正直、みっともない話だなと思う。単純にいい年してしっかりしてない自分をさらしている。恥ずかしい。僕は趣味人だからね、といって軽く流すこともできるかもしれないが、なんとも形容しがたい気持ち。腹をくくる瞬間はこれまでも何度かあった。今回もそうなんでしょう。私はそれなりに努力はするので、きっと乗り越えられる。
一方で、家買ったり、結婚したり、旅行いったり、別にいまだに破綻せずに生きていけてるんだからわりと頑張ったんじゃないか。ない「自分」なりには生きてこれたかもしれない。
フィルム写真は、薬品やフィルム、来月の遠出などもう少し撮りたいものがあるので、しばらくは続ける予定。ニューボーンフォトもフィルムでも撮りたいし、全部整理ってわけにはなかなか行かなかった。そのために小型のフィルム機を手に入れたんだけど、それは次の記事で。この期に及んでフィルムカメラ買ってるというところに戦慄を覚える(笑)。